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学校礼拝(第30回)

2017.11.13BLOG

【今週の聖句】


だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。( エフェソの信徒への手紙 5章17節 )


奨 励 題  『 無分別な者とならないために 』


奨 励 者  教諭  家山 麻希


先々週の礼拝では、北星学園女子中高宗教主任の浅野先生が奨励をされ、「私はただ、ここにいるだけでよい。」と語られました。また先週の礼拝では、榮校長先生がつながる命の素晴らしさについて触れられた上で、「揺るがぬ視点を聖書は伝えている。」と語られました。


では、何故「ここにいるだけでよい」のでしょう。何故「揺るがぬ視点を聖書は伝えている」のでしょう。考えたことは、ありますか。


何故か。それは神が、あなた方を造られ(=命を与えられ)、愛されているからです。あなた方は一人ひとり、大切なのです。人間はすぐ優劣をつけたがりますが、神はおつけになりません。みな等しく愛されています。


あなたの存在は、神がお造りになったのですから、誰かがあなたの尊厳を傷つけた場合、その人はあなただけでなく、造り主である神に対しても失礼なことをしています。全ての命を神が与えられているのだという「わきまえ」がないと言っても過言ではありません。


同様に、あなたが自分の尊厳を大切にしていない場合、あなたを作られ愛されている神様をどれほど悲しませているのか、その視点が欠けているといえます。


神は、あなたの存在を愛し大切に思われていますから、当然幸せになることを願われています。幸せになるためには、「何が幸せで何が不幸せかを学ぶ=分別する」必要があり、その教えが「聖書」にあるのです。


聖書のいう幸せとは、金持ちになることでも、立身出世でも、整形して美人になることでもありません。「無分別な者=わきまえのない者とならず、主の御心が何であるかを悟る」、つまり何が神に喜ばれ、何が神を悲しませるのかに判断基準を置くところに幸せがあるのです。





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