酪農経営科2年生は、3月4日から15日までの12日間、本校の建学の精神であるグルンドヴィが提唱した三愛精神「神を愛し、人を愛し、土を愛す」のルーツであり、酪農王国であるデンマークでの実習を中心とする研修旅行に出発します。今回は、特別プログラムとして3月5日にデンマークの国会を訪問します。国会ではアナース・サミュエルセン議員による特別講演と国会内のガイドツアーならびに同日夕方、在デンマーク日本大使館にも訪問し大倉一等書記官による日本側から見たCOP15についてのお話を中心とした講演を予定しています。
3月3日、結団式が行われ、3月4日早朝、無事出発しました。今回の研修旅行で自信と誇りを持ったデンマーク農民の伝統的精神、言葉の壁を乗り越えて多くを学んで帰国することを期待しています。
<今週の聖句>
「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
( ヨハネによる福音書 16章24節 )
<今週の奨励>
「1年を振り返って」(肥田信長 宗教主任)
今年度の年度聖句をもう一度読み直してみたいと思います。1年生が入学して、最初に礼拝を捧げた日に読んだ聖書の箇所です。ここには神さまのお考えが書かれています。その箇所には、喜びに満たされるのは"あなた"だけではなく"あなたがた"なのだということが書かれています。
皆さんは、今年度の1年間を振り返ってみると、自分の事ばかりではなく、相手の立場にも立って物事を考え、行動していたでしょうか。自分自身が放蕩息子のように、自分勝手な判断からの行動ではなかったのか見つめ直してみなければなりません。
ところで、あなたが一緒にいたい人は、どのような人なのでしょう?自己中心的で傲慢な人と一緒にいたいですか。逆に、あなたが一緒にいたいのは、あなたの事を思いやり、親身に考えてくれる人なのでしょうか。きっと、自分の事を考えてくれる人と一緒にいたいと思うでしょう。同じように、あなたの周りの人々も同じように考えていることにも目を向けなければなりません。
皆さんが、とわの森三愛高校に入学した時に、一緒にいたいと思った人や、この人のようになりたいと思った人はどのような人だったのでしょうか。もう間もなく新入生が入学してきます。ぜひ、自分身が新入生だった頃のことをもう一度思い出してみましょう。新入生だった時に、「あの人のようになりたい」と思っていた人のように歩めるように願い求めていきたいものです。
<今週の聖句>
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」
( コヘレトの言葉 12章1節 )
<今週の奨励>
「青春の日々にこそ」(ロバート・ウィットマー牧師)
聖書のコヘレトの言葉は私たちに上手な生き方を教えてくれます。信仰的な表現はあまりありませんが、その代わりに「生きる」ということがいかにむなしいかと伝えることばの方が多いです。そして、終わりになって急に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と言います。なぜこんなことを言うのでしょうか。
今日の日本では人生がむなしいと思っている人々がたくさんいるようです。統計によると、この10年間では毎年30,000人以上の人々が自殺しています。さらに、日本の子どもたちの30%が何らかの孤独感を感じていると言われています。そこでコヘレト(集会で語る者)は「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と言います。
創造主を心に留める――それは自分が自分の力で生きているのではなく、創造主によって生かされていることを知ることです。聖書によると創造主である神は愛です。つまり、あなたは愛である神の愛によって命が与えられ、日々その愛によって生かされているということです。であればあなたの人生は決してむなしくないのです。
神の愛こそ私たちの生きる力であり、私たちを生かす力であります。誰の人生においてもいろいろなことがありますが、若い時に神の愛を確実なものとして知ることができれば、何があっても希望を失うことはありません 。
<今週の聖句>
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」
( ルカによる福音書 15章32節 )
<今週の奨励>
「 視点を変えてみると 」(肥田信長 宗教主任)
今日の「放蕩息子のたとえ」の主な登場人物は、父と2人の息子です。父に対して「わたしが頂くことができる財産の分け前を下さい。」と弟が言うのです。そして、その時与えられた財産を全てお金に換えてしまって、遠い国に旅立って放蕩の限りを尽くしてしまうのです。
与えられた全てを使い尽くしたときに、弟がいた地方でひどい飢饉が起こって、食べることに困り始めます。豚の世話人として働いている時に、豚の餌にも手をだしてしまいたくなる程、お腹が減ってしまいます。そんな状態になった時、父の元に帰る決心をします。自分の行動を振り返ってどのように自分の罪を告白していこうかと考えながら。「もう息子と呼ばれる資格はありません。」そのように告白した弟に対して、父は彼をもう一度自分の息子として迎え入れます。
畑で仕事をしていた兄は、自分の家に戻ってみると、お祭り騒ぎをしている家の状況に驚きます。そして、父が放蕩の限りを尽くしていた弟が帰ってきた事を喜んでいると聞きます。自分が友達と宴会をしようとしても子山羊1匹もくれなかったのに、弟には子牛を準備して食べているのです。
この物語は、登場人物の誰の立場で考えるかによって、感じ方が全く違って見えてきます。違った立場から一つの出来事を見ると、腹が立つ立場にいたり、ゆるしてもらいたいと思う立場にいたり、立場に変わることに気付きます。自分が今いる立場をもう一度見直して、ぜひ自分ではない他の立場からの視点でも物事を見て、自分自身が神さまからいつもゆるされてばかりいる立場にいることに気付いていきたいものです。
<今週の聖句 >
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」( フィリピの信徒への手紙3章7節 )
<今週の奨励>
「すべてを失い、多くを得た」(榮 まり子 先生)
聖書科で使用している資料集に「Footprints (あしあと)」という詩があります。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。
作詞者マーガレットさんは、予想外の人生を送ります。命を失う危機の時、詩を生み出した時、詩が盗まれた時、詩が戻った時、全て思いもしない出来事でした。大きなものを失ったと思う時に自分の期待や願いより大きなものを与えられたと、聖書の言葉に知らされる人生でした。私達にもその言葉は語られています。
2月4日(木)~7日(日)江別市野幌公民館ギャラリーにて、
美術部・書道部合同の校外展を開催します。
生徒一人ひとりの作品をぜひご覧になって下さい。
時間は9:30~17:00(最終日は16:00まで)です。
<今週の聖句>
「そこで王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
( マタイによる福音書25章40節 )
<今週の奨励>
「見えないところを見る神」(榮 忍 学校長)
礼拝ファイルを点検していて、一所懸命メモ欄と感想欄が埋められているのを読むのは嬉しいものです。でも、時々、確かに欄は埋められているのですが、この週報に載っている言葉を引き写しているばかりのものもあります。自分の言葉を見つけて、借り物でないものに整えてほしいと思います。
さて、聖書を表面ではなく、込められたメッセージを理解し、受け止めてほしいと前回話しました。主イエスは、たとえ話をいくつも残しておられます。表面だけならただのお話です。今日の箇所も、世の終わりにおける神の選びと裁きが語られています。世界の破滅や神からお褒めの言葉をいただく注意でしょうか。
人は神の前で自分自身を問われる時を与えられるのです。いわばそれは、他と比べられない「究極の時」です。自分では意識すらしていないことが指摘されます。「あなたはわたしを助けてくれた」と。身に覚えのないことです。王(神)を助けるようなことがあれば、忘れたりはしないでしょう。王は40節の言葉で答えます。「弱く小さな兄弟と、わたしは同じなのだ」と。自分が深く思いを寄せている者と、わたしたちは共感します。あたかも一体であるかのように。王(神)も同様に心を寄せてくださるのです。
たとえの後半では、「自分は評価されて当然だ」と自負している者たちが退けられています。「言ってくれれば」「王と分かっていれば」彼らもそれらしく行動したのでしょう。でもそれは、身に着いたものではないのです。借り物ではない、本物を手に入れましょう。
<今週の聖句>
「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」( 使徒言行録20章35節 )
<今週の奨励>
「 受けるよりは与える方が幸いである 」(黒畑 勝男 副校長)
3年生の皆さんはいよいよ卒業ですね。3年間、聖書の授業があり、こうして礼拝があり、日常的にイエスのことが語られてきました。他の高校と決定的に違うことは、「恵みを受けている」ということについての学びが自然にあったということです。このことを心に留めておいてください。
「根本的に人間は自己中心に物事を考え、自己中心に世界を眺める存在です。だから、イエスを知ることが大切です。」と言われても、すんなりと得心できないものです。しかし、これからの人生の中できっとそれを知ることがあると思います。
15年前、阪神淡路大震災がありました。私はその時のボランティア活動の中で、ある若者と共に、ボランティア観の大きく変わる経験をしました。人は、「受けているもの」、「受けること」の大きな意味を知ると同時に、「与えること」、「与えるもの」の意味も知るということを、一つの例として実感しました。
実は、私たち自身は、日常生活の中で本当に「大きな恵み」を受けているのです。しかし、なかなかそれに気づくことができない。卒業後、3年間を本校で過ごしたことを思い起こし、このことを心に留めて歩んでほしいと思います。それが、本校を卒業することの大きな意味でもあります。





















