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2009.05.18

学校礼拝(第6回)

<今週の聖句>
わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聴いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。
 (テサロニケの信徒への手紙一 2章13節)

 

<今週の奨励>
「神の言葉として」(榮忍校長)

驚くべき記述がここにはあります。自分の語る言葉が神の言葉として認識されたと、この手紙の著者は振り返っているのです。現代において聖書に触れる私たちは、この表現を共有できるでしょうか? ここには重要な心の態度が隠されています。

誰かの言葉に「神」を見ることの危険も我々は知らされてきました。

もし、これが成立するのなら、そこには深い信頼があります。ある意味「無条件降伏」のようにすべてを委ねる決断が求められるのです。その決断は可能でしょうか?
新約聖書に多くの手紙を残したとされるパウロは、迫害者から伝道者へと生き方を180度変え、ローマ帝国によって支配されていた各地に旅しながら、「キリストの福音」を宣べ伝えました。散在するユダヤ人の集落には「会堂」があり、そこに集う人々を中心に「ユダヤ人が十字架につけたナザレのイエスこそキリストであり、救いはここに示されている」と伝えたのです。
各地の人々にしてみれば、噂に聞くパウロ一行が来るとなれば、刺激を求めて集うでしょう。期待が前提にあれば、その時には感化を受け、彼らの言葉に耳を傾けます。正に、神の言葉として傾聴し、自分も新たにされて歩もうとしたのです。一行が滞在し、指導し続けてもらえればよかったのですが、救いを伝え広げるために一行が旅立ってしまうと、教えを自分たちで維持していかなければなりません。「神の言葉」としての本質を変えず、福音の輝きを曇らせぬ取次ぎが欠かせぬものです。聞いた者として、語る者に変えられる、その責任を共に考えましょう。

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