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2009年6月アーカイブ

<今週の聖句 >

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

(ローマの信徒への手紙 5章3~4節)

 

 <今週の奨励>

「生命の原点:健土健民」(村山昭二先生=前学校長)

 

黒澤酉蔵は1885年(明治18年)茨城県の小農家に生まれた。15歳の時に上京し、翌年より働きながら英語学校に通った。当時の日本は世界の列強国と追いつくために、銅で外貨を稼ぎ、足尾銅山に力を入れていた。足尾銅山は渡良瀬川の上流にあるが、銅山の鉱毒は渡良瀬川の氾濫のたびに大災害となり、農民は農作物の大きな被害を受けていた。国会議員だった田中正造は鉱毒問題をかかげ、農民救済のために力を尽くした。国会で政府の無為無策を追及し、被害民救済・銅山閉山を訴えた。1901年には国会議員を辞職し、群衆の中から駆け出して明治天皇に「お願いがございます」と大声で直訴した。

このとき黒澤酉蔵は17歳であったが、田中正造の行動に感動し、田中正造を訪ねた。田中正造は事件の真相や経緯を丁寧に教え、黒澤酉蔵はその正義感と人間愛、人格に胸を打たれ、「この人ならば一緒に命を投げすててもいい」と思い、どんなに苦労をしても虐げられた農民を救わなければならないと決意を固めた。黒澤酉蔵は、農民が他力に頼るばかりで、自力で問題を解決しようとしないことを重く受け止め、農民が自主的に団結して災害防止のために行動する必要があることから、村々から同士を集め「青年行動隊」を組織した。黒澤酉蔵は集会を開いたり、路上で演説会を行ったりした。

その結果、黒澤酉蔵は過激思想を持つ危険人物として投獄され、6か月の拘留生活を送ったが、その間に教育家潮田千勢子から聖書を送られた。

先日行われました高体連・高文連の全道大会の結果、以下のクラブの全国大会出場が決まりました。全国大会でも全力を出し切り、良い結果が出ることを期待しています。

○ソフトボール部~優勝

○体操競技部~女子1部 

 団体:優勝

 個人:優勝 佐藤 愛香

    3位 畠山 郁美

    5位 勝亦 萌

    6位 安田 美奈

○バドミントン部~個人 女子シングルス2位 鈴木 萌

○男子ソフトテニス部~個人 ダブルス:5位 片倉・山野組

○女子ソフトテニス部~個人 ダブルス:5位 田中・今村組、小金・金谷組

○放送部~創作ラジオドラマ部門 入選

 

花の日礼拝(第11回) 花の日礼拝(第11回) 花の日礼拝(第11回) <今週の聖句>
神がこのように私たちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
 (ヨハネの手紙I 4章11節)

<今週の奨励>
「違うからこそ素晴らしい!」(肥田信長宗教主任)

幼稚園や保育所で教えられる歌に「チューリップ」という歌があります。その歌の歌詞の中には、「どの花みてもきれいだな」と歌われています。この歌は、1930(昭和5)年に近藤宮子さんというおばあさんが作詞されました。作詞された時、日本は第二次世界大戦に向かおうとした時代でした。
近藤さんは、"何事にも良いところはあるものだ。特に弱いものに目を配りたい。"と言う思いを込めて作詞されたそうです。
YCA部は夏休み中に東北北海道地区のカンファレンス(研究発表大会)に毎年参加しています。その会の発表のテーマは「平和」「人権」「共生」と1年ごとに変わりますが、同じテーマであっても、参加する学校で作るレポートの内容に違いが出ます。違いがあるからこそ、お互いに学び合うことができるのです。
今日の聖書の中には、神さまが私たち一人ひとり違いのある人間を愛して下さっているということが書かれています。全ての人から見捨てられてしまうことがあったとしても、神さまだけはどのような人であっても見捨てられることはないのだと教えているのです。
社会の中でも、学校の中でも、家庭の中でも違いを見つけた時に、嫌になって受け入れられなくなってしまうこともあります。花の色を見るとどうなっているのでしょうか?一つひとつ同じ色のものがないからこそ、美しく感じることができるのです。私たちもお互いの持っている特色という違いをお互いに受け入れ、お互いの足らないところを助け合いながら、「どの人見てもきれいだな」と言えるように、お互いを生かし合っていきたいものです。

<今週の聖句>
ザアカイ、急いで降りて来なさい。
 (ルカによる福音書 19章5節)

 

<今週の奨励>
「おりておいで」(藤井創先生=酪農学園大学)

 

徴税人ザアカイは、人々から"罪人"と呼ばれる社会の落ちこぼれでした。だれも彼を友人と認めませんでした。ある日、その町にイエス様がやって来て、木の上にいたザアカイに「おりておいで」と言われました。この一言が彼の人生を変えました。「だめじゃないか。正しい人間になってここまで上がってこい」と"上への招き"を聞かされ続けてきたザアカイにとって、それは生まれて初めて聞いた"下への招き"のことばだったのです。
バスケットボールのスーパースター、マイケル・ジョーダンがこんな話をしています。「小さい時、バスケットが下手で、友達からもけなされ、しょんぼりしていると、父が特大のバスケットボールのリングを作ってきて、僕の前に大きく広げ、僕のシュートがはずれそうになっても、リングを動かして受けとめてくれ、『うまいぞ、その調子だ』と励ましてくれたんだ。気がついたら、僕はバスケットが楽しくてたまらなくなっていた。これが、今僕がバスケットの神様と言われるようになった秘密なんだ」。マイケルとお父さんの関係は、ザアカイとイエス様の関係をわかりやすく説明してくれています。「おりておいで」と言われたザアカイは「財産の半分を貧しい人に施します」と約束し、のびのびとした生活へと立ち上がっていきました。

どんな自分でも、どこにシュートをはずしても、徹底して下から受けとめてくれる、その大きな胸に抱きとめられる時に、人はそこから本当に一生懸命に生きはじめるのです。

<今週の聖句>
そこでイエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
 (ルカによる福音書 10章37(b)節)

<今週の奨励>
「行って、あなたも同じようにしなさい」(横川容子先生)

サマリア人というのは、イエスの時代、ユダヤ人から大変軽蔑され、差別されていました。
イエスはこのたとえ話をあろうことかユダヤ人に向かって話しています。
想像してみてください。私たちが最も受け入れられない、愛することができない、自分がいつも軽蔑している、そんな人が自分を助けてくれる。
それだけでも心地いいたとえ話ではないのに、イエスは言うのです。「行って、あなたもこのサマリア人と同じようにしなさい。」と。
イエスがうまく問いをすりかえているのも注目です。律法の専門家は「私の隣人とは誰ですか?」と問うのですが、イエスは逆に問い返すのです。「この話の中で、誰が倒れている人の隣人になったと思うか?」

「隣人愛」とは、自分の近くにいる、自分と分かり合える人を愛することではありません。また自分が愛するべき隣人を自分の外側に探して、愛そうとすることでもありません。私たちが他者の、もっとも苦しんで道端に倒れている他者の「隣人になる」ことだと、イエスは教えているのです。しかもそれが、いつもあなたを軽蔑しているあなたの最も許せない相手であったとしても、です。

「苦しんでいる人の隣人、それはあなただ。」

「行って、同じようにしなさい。」というイエスの言葉を心に刻んで、生活してみてください。
<今週の聖句>
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
 (ヨハネによる福音書 20章22節)

<今週の奨励>
「神の息」(榮忍校長)

キリスト教の祝祭日で、日本においてもっともなじみのないものが、この「ペンテコステ(語源はギリシャ語の『50番目の』)」という日でしょう。もとはユダヤ教の収穫祭で、「過越しの祭」から50日目に祝われていた日です。
使徒言行録2章には、この祭の日に、部屋に閉じこもっていたイエスの弟子たちに『聖霊』が降り、祭のために各地からの巡礼者であふれているエルサレムの街に出て行き、神の救いについて、各国の言葉で語りだした、と記されています。
この時からキリスト教における「聖霊降臨日」という祝祭日の意味づけが加えられたのです。
ところで、今日の聖句には、復活のイエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と語ります。どちらが本当なのでしょうか。どちらにも真実があるとされて、調整されないままに残された文書と見て良いでしょう。前後の表現を見ると、閉ざされた部屋に現れるイエスが、平和の挨拶をし、弟子たちを派遣する宣言に伴って息を吹きかけ、罪の許しの権限を与える、ことが記されています。
人々の中に出て行って、神の業・罪の許しを伝えること、それを成り立たせるのがイエスとの出会いと聖霊(=息)なのです。
さて、わたしたちはこのような聖霊を受けることが可能なのでしょうか。イエス・キリストが救い主として受け止められる時がその時だとパウロの手紙に触れられています。自分の努力への報いではなく、神の愛によって恵みの場に招かれることを謙虚に受け止める心に、道が示されるのです。自分の存在を安心して委ねられる関わりを、見つけたいものです。

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