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2009年8月アーカイブ

<今週の聖句>

「私たちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。」

( コリントの信徒への手紙2 10章3節 )

 

<今週の奨励>

「石投げ紐を手に」 (高橋一酪農学園大学宗教主任)

 

 私の好きな国語辞典に『三省堂新明解国語辞典』があります。この辞書は言葉の定義や説明がとてもおもしろいのです。例をあげましょう。

 昨日は衆議院議員総選挙でした。各政党がマニフェストと呼ばれる「公約」を掲げました。「公約」という言葉は、この辞書ではこう説明されます。【公約】政府・政党など、公の立場にある者が選挙などの際に世間一般の人に対して、約束すること。また、その約束。〔実行を伴わないことも多い〕。この〔  〕の中の一言が効いていますね!

 さて、日本は第二次世界大戦に敗北して今年で64年になります。日本人はこの戦争の敗北によって、初めて平和を"身に沁みて"考えるようになりました。平和の大切さを"肝に銘じた"のです。日本国憲法で保障されている《基本的人権の尊重》や《主権在民》は"目からウロコ"でした。私たちは自分の頭だけでなく、体全体で物事を体験しないと、ほんとうに大切なことは理解できないようです。

 選挙も平和を実現する試みの一つですが、平和のための戦い方はいろいろです。旧約聖書によれば、少年ダビデがゴリアテという敵の大男の武将を倒したエピソードが出てきます。ここには立派な武具によってではなく、ふだんから自分の生活になじんでいた道具、自分の身の丈に合った石投げ紐(ひも)を使って勝利したと書かれています。私たちも日常の生活の中で少しずつ、平和のための《自分なりの戦い方》を身につけておきたいものです。

平和礼拝コンサート 平和礼拝コンサート

本日は平和礼拝でした。
「ピアノと歌とメッセージ」と題して、歌手の沢知恵さんを迎えてのコンサートが行われました。
礼拝堂には、沢さんの説得力ある深い歌声が響き渡り、感動のひとときとなりました。

<今週の聖句 >
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
( ローマの信徒への手紙12章17~18節 )

やられたらやり返すのが当然と感じる人が多いのが、人間社会の常です。けれど、それは新たな被害者と、新たな報復の決意を生むことになります。その結果生まれてくる報復の連鎖は、悲劇の増幅でしかありません。鎖を断ち切ることが必要です。そのためにわたしたちに求められるのは、「痛みを引き受ける決意」ではないでしょうか。
文章にすれば簡単ですが、これを実行することの困難さを想像するのは容易なことです。不快な思いは、大きな不利益として刻まれます。自分だけがこの不利益を被って終わるのは、面白くないのです。
また、報復を与える時、自分の行為は正当化されています。正に、その思いがキリストを十字架に釘付けたのです。思い上がるな、と怒りの神が世界を滅ぼす決断を示してもおかしくないのに、神はそうはなさらず、もう止めようと矛を収めたのです。復活のイエスが伝えるのはこの神の決断です。
イエス・キリストにおいて、神が痛みを負う決意を示されました。称賛を得ようと言う打算や、自己満足、自己陶酔があれば、化けの皮が剥がれる結果を招くでしょう。けれども、聖書に示されたこの神の決意に出会った人々は、そこに「愛」を見出しました。更なる報復を繰り返さないと言う神の決意に、この世界に対する「愛」があることを知り、互いに平和に生きるこの道を求めたいのです。
(文責・榮)

<今週の聖句>

 「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を作り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。おまえたちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

( エゼキエル書18章31~32節 )

 

<今週の奨励>

 「立ち帰って、生きよ」(榮忍 学校長)

 

  夏休み、それぞれが守られたことを感謝しましょう。積み重ねた経験が、今後を築く力となるよう用いることを心がけましょう。

 さて、8月は「平和」を覚える月です。第二次世界大戦での敗戦、その引き金となった広島・長崎の原爆、考えさせられることは多くあります。しかし、季節的に思い出すだけではなく、覚え続けることが大切です。

 旧約聖書の預言者たちは、自国の危機を目の当たりにして、神から預けられた言葉を人々に語ります。「このままではいけない。悔い改めて、神に立ち帰れ」と。命の原点を見失って繁栄を得ても、空しいことだ、と展開される言葉もあります。

 大したことではない、これくらいは自分だけではない、と初めは思うのです。でも、繰り返されていくと、引き戻せないほどに膨れ上がり、いつの間にか、気付かなくなります。罪悪感は、麻痺してしまう危険を伴います。そして、自分で「もうこうなってしまっては、やり直しは聞かない」と決め付けることが起こります。

 聖書の神はそこに語りかけます。「赦すのはわたしだ」と。自分で自分を赦すことは、欺瞞でしかありません。真の赦しを得て、本来の自分に帰り、生きる者となる道があります。追求しましょう。

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