10月24日(土)第二回目の学校見学会が行われました。例年にも増して参加人数も多く、また全国各地からも、たくさんの中学生・保護者の方々に来ていただきました。
今回の授業体験では、トップアスリート健康コースの「強化指定クラブ見学」も実施されました。 中学生のみんなは、希望のコースでの授業体験に、真剣に、また楽しく、参加してくれました。ありがとうございました。
11月21日には最後の学校見学会を開催いたします。是非ご参加ください。
参加者の感想より
・ 説明の雰囲気も良くて素敵でした。講座も楽しく受けられました。
・ 色々知らなかったことを知ることができました。大学進学や就職にも力が入っていて驚きました。ぜひ参考にしたいです。
・ 色々なコースがあって僕は総合教育コースに入りたいです。中国語とアグリトライが楽しそうです。
・ 学校の雰囲気も良く、学習に集中できる環境だと感じました。様々なコースがあるのが魅力的だと思いました。
・ 見学二回目だったのですが、やっぱり自分に合っているのはここしかない!と思いました。一回目よりも詳しく聞くことができて、とわの森高校のことがもっとわかりました。将来は獣医になろうと思っているので、今後も頑張ろうと思いました。
・ とわの森三愛高校に入学したいという思いが強まりました。ぜひフードクリエイトコースに入って、もっともっと「食」について学びたいと思いました。
2009年10月アーカイブ
<今週の聖句 >
「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
( マタイによる福音書 11章30節 )
<今週の奨励>
「蕾」(西川謙先生)
私たちは、歌に共感することがよくあります。そして、それは一般的に人間関係における辛い経験が歌われていることが多いように思います。
人間関係などでよく見られる問題は、自分が選んだ事柄や感情の責任を負わずに、誰か他の人に責任転嫁しようとすることにあります。
例えば、自分の行いの説明をするとき、どれだけ「~せざるを得なかった」「~のせいで」といった表現が使われているか、考えてみて下さい。このような言い方は、人間関係において自分の行いを左右しているのは自分ではないという、私たちの思い違いを露呈しています。他の誰かがコントロールしているのだと、人のせいにして、自分の基本的な責任から逃れようとしているのです。なぜなら、その責任を自分が負うのは、重くて耐えられないからです。
だから、聖書が必要なのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイ11章28~30節)
今、もしみなさんが辛いところにいるのなら、戦う相手を間違っていないか確認する必要があります。他人が変わってくれれば解決すると思いたいところですが、あなたが変えるべきなのは、自分自身の見方や考え方です。
自分で責任をとるようになると、結果がどうであっても、本当の満足感や、幸福感を味わうことができるのです。
星野富弘さんの作品に、次のような詩があるので、紹介します。
「幸せ という花があるとすれば
その花の蕾のようなものだろうか
辛い という字がある
もう少しで 幸せ になれそうな字である」
10月15日~20日の日程で普通科の2年生は修学旅行に行ってきました。
奈良では奈良公園、薬師寺を見学、京都では自主研修、沖縄ではマリンスポーツ体験、美ら海水族館やひめゆり資料館の見学etc・・・各地でたくさんのことを学びました。
今年の修学旅行のテーマは
「私たちはなぜ、ここへ来たのか」
─ 今自分達にできること、その答えを探すたび ─
そして、修学旅行の目的は
1.奈良・京都を訪れ、日本の歴史や伝統・文化を学ぶ。
2.沖縄を訪れ、過去の戦争の悲惨さ、現在の基地をめぐる問題などから、
命の尊さ・平和の大切さを学ぶ。
3.5泊6日の集団行動を通して、各自の責任と協力のあり方を学ぶ。
そして、人間として大切な周囲への配慮や忍耐、適切な言動を身につける。
でした。
参加したすべての生徒がテーマに沿って目的を達成でき、素晴らしい修学旅行となりました。この経験と学びを今後の学校生活に生かすことができることと思います。
<今週の聖句>
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
( ヨハネによる福音書4章14節 )
<今週の奨励>
「井戸のそばで」(池田淳郎先生)
今日の聖書箇所では、イエスがサマリア人の女性と話をします。しかし、そのようなことは当時は考えられないことでした。サマリア人はイスラエル人に外国の血が混ざった民族で、ユダヤ人は彼らを穢れていると見なし、軽蔑していたからです。しかも、実はこの女性はいわくつきの人物でした。そんな彼女がイエスから声をかけられた時、どう感じたでしょうか。
この情景を描いた「井戸のそばで」(歌:LYRE)という歌をご紹介します。
彼女は生きることに疲れて
すべてを投げ出したい日々の中
誰にもわかってはもらえない
痛みと涙を持っていた彼女を
あの井戸のそばで 温かな微笑みをして
ずっと待っていた ずっと待っていた
イエス様は待っていた
雲は流れ 風も過ぎていく
あわただしく変わるこの時の中
決して変わらないみことばは
今も私に語りかける 確かに
あの井戸のそばで 温かな微笑みをして
ずっと待っている ずっと待っている
イエス様は私たちを
そう言えば、皆さんも「サマリアの女」のような人を知っているのではないでしょうか......。
<今週の聖句>
「 邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかり立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」
( エフェソの信徒への手紙 6章13節 )
<今週の奨励>
「自分の弱さとの戦い」(肥田信長宗教主任)
みなさんは、好きな讃美歌はあるのでしょうか。何かをしている時に、思わず口ずさんでしまうようなものはありませんか?私自身は、キリスト教主義の中学校に入学した時から大好きな讃美歌が何曲かあります。そのうちの1曲が今日も全員で歌う380番です。中学校の時に、この讃美歌は決まって体育祭を始める前の礼拝で歌っていました。
この讃美歌は、戦いに勝つための曲です。そして、"すべてのあだ"(全ての仕返しをしようと思う相手)に勝ちなさいと歌っています。しかし、この讃美歌は、自分の敵と戦いをしろと教えたり、自分の敵に勝つために歌うものではありません。自分の中にある弱い部分である誘惑に負けることなく、自分の弱さと戦い続けなさいという讃美歌なのです。
大きさや種類は違っていても、人間は自分自身の中に弱さや、誰にも言えない辛いことを抱えています。そのような部分を成長した時に自分自身で振り返ってみると、「なぜあの時あんなことで悩んでいたのだろう」と思える時が来ます。それが困難を乗り越えた証であり、またそれは、自分の弱さと向き合って、逃げなかった証なのです。
イエス・キリストは、全く罪のない神の子としての存在だったのにも関わらず、全人類の罪を背負って、十字架にかかってくださいました。神さまが準備してくださる道こそ、誤りのない、自分の弱さとの戦いを終えた後に与えられる救いの道なのです。
<今週の聖句>
はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
( ヨハネによる福音書 16章20節 )
<今週の奨励>
「変わらぬ喜びを得る」(榮忍学校長)
ヨハネによる福音書は、他の3つの福音書とは趣が異なり、不思議な表現が多く見られます。そもそも4つも福音書があることも不思議です。同じ主イエスについて伝えているはずなのに、分量も表現も出来事の順番も違っている例をいくつも数えることができます。一つに絞ってしまえばすっきりするのに、と思う人が多いのではないでしょうか。
しかし、真実は必ずしも一つの表現に押し込められるものではないのだ、と聖書は訴えているようです。創世記に二つの創造物語があります。列王記と歴代誌は、イスラエル・ユダ王国の歴史に関わる二種類の記録です。気をつけたいのは、複数の表現、視点を示しながら、扱っているのは複数の命題ではない、ということです。貫かれていること、普遍的なことは何か、が関心事です。聖書においては、わたしたちの歴史に神がいかに関わるか、です。
今日の聖書の箇所に暗示されているのは、主イエスが処刑され、悲しみに暮れることになるが、この世はむしろ喜ぶ、という場面です。しかし、その悲しみを経た後、改めて弟子たちは喜びの中に招かれる。復活のイエスとの出会いも示されています。
この、悲しみを塗り替える喜びをもたらす力を持つ方に願い求めるものはかなえられる、との約束。これが、今年度の聖句が伝えていることです。その経験を経た後には、それまでとは違う普遍的な喜びが与えられるのです。
<今週の聖句>
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
( コリントの信徒への手紙一 9章24節 )
<今週の奨励>
「到達点を知る」(榮忍学校長)
コリントは、古代オリンピック発祥の地ギリシャの都市です。当時の人たちも、競技を楽しんでいた様子が伺える聖書の箇所です。ところで、「平等」が強調されるようになった現代では、運動会が様変わりしたと聞いたことがあります。優劣を付けない、勝敗をはっきりとさせない競技形態が増えていると聞きましたが、実体はどうなのでしょう。
自らの力が、どの程度のものかを知る機会は大切です。変にうぬぼれたり、必要以上に卑屈になったりすることがあるからです。正しく力量を量ることができて初めて、補うべきことも分かるものです。
わたしたちの力は、生まれてきたその時には全くの未知数です。人間は「生理的に早産」なのです。脳の容量の増加によって、母胎で十分発育するのを待てなくなったのだということです。立つ力もなく、養育者の手にすべてを委ねて育ちます。受け止めてくれる手がなければ、生き得ないのが人間の赤ん坊です。しかし、一つ一つ学習を重ねて成長していくのです。
それでも、人間の脳の使用度合いはそれほど多くはないと言われます。皆さんがそれぞれに自らの力を探求し、真摯にそれを伸ばそうとするのであれば、必ず道は開かれます。そのために、正しい目標と、その目標に至る正しい行程を辿れているかを確認することが大切なのです。区切りのこの時に、自分の到達している地点を確認しましょう。





















