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2010年1月アーカイブ

<今週の聖句>

「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」( 使徒言行録20章35節 )

 

<今週の奨励>

「 受けるよりは与える方が幸いである 」(黒畑 勝男 副校長)

 

  3年生の皆さんはいよいよ卒業ですね。3年間、聖書の授業があり、こうして礼拝があり、日常的にイエスのことが語られてきました。他の高校と決定的に違うことは、「恵みを受けている」ということについての学びが自然にあったということです。このことを心に留めておいてください。

 「根本的に人間は自己中心に物事を考え、自己中心に世界を眺める存在です。だから、イエスを知ることが大切です。」と言われても、すんなりと得心できないものです。しかし、これからの人生の中できっとそれを知ることがあると思います。

 15年前、阪神淡路大震災がありました。私はその時のボランティア活動の中で、ある若者と共に、ボランティア観の大きく変わる経験をしました。人は、「受けているもの」、「受けること」の大きな意味を知ると同時に、「与えること」、「与えるもの」の意味も知るということを、一つの例として実感しました。

 実は、私たち自身は、日常生活の中で本当に「大きな恵み」を受けているのです。しかし、なかなかそれに気づくことができない。卒業後、3年間を本校で過ごしたことを思い起こし、このことを心に留めて歩んでほしいと思います。それが、本校を卒業することの大きな意味でもあります。

<今週の聖句>

「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。』」

( マタイによる福音書22章37, 38節 )

 

<今週の奨励>

「最も大切なこと」(渡辺淳先生)

 

 新しい年を迎え、私たちにとって何が一番大切なことかを確認しましょう。イエス・キリストは、「神を愛すること」こそが人間にとって最も重要な掟であると明確に語っています。

 では、なぜ神を愛さなければならないのでしょう。聖書には「私たちが神を愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙)と書かれています。今日の聖書の個所には、神の愛についてのたとえ話が記されています。放蕩に身を持ち崩した息子が我に返り、罪の赦しを請うと、父親は大喜びで息子を迎え入れるというたとえです。ここから次のことがわかります。

 まず、神を愛するとはどういうことか。それは、神に立ち帰るということです。それまで自分の思い通りに生きてきた人生を改め、神の教えに従う人生へと方向転換するということです。

 次に、神の愛を知り、神を愛するためにどうしたらよいのか。そのためには、自分自身を省み、罪を認め、悔い改めの祈りをすることです。自分の非を認めないような高ぶった心を抱かず、かといって自分の罪深さに絶望するのでもなく、ありのままの姿で神の前に進み出ることです。神は御子イエスを遣わし、私たちの罪の身代わりとして、十字架での死を遂げさせ、心から悔い改める者の罪を赦し、その人生を豊かに祝福してくださる。これが聖書の福音です。

 新たな年のはじめ、私たちは深く自己を省み、心から罪を悔い改め、神を愛する者となりましょう。そこから、実り豊かな人生が始まるのです。

ソフトテニス 春の選抜大会  1月5~8日、きたえーるにて、第35回全日本高等学校選抜ソフトテニス大会北海道予選が行われました。  女子は優勝、男子は準優勝という成績で、ともに全国出場の切符を手にしました。全国大会は3月29・30日名古屋にて開催されます。  応援宜しくお願いします。

<今週の聖句>

 「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。」

( ルカによる福音書 17章9節 )

 

<今週の奨励>

「当然のことをする」(榮忍学校長)

 

 クリスマスから年末年始と冬休みは結構忙しいものですが、どのように過ごすことができたでしょう。受験のため休みなどない、と感じる場合もあったと思います。それぞれに、為すべきことを見出し、忠実にそれを果たすことができていてほしいものです。

 キリスト教は、聖書に神の真理が記されていると信じますから、聖書の言葉に聞きながら日々の生活を整えていこう、という姿勢を追求します。各自の命が神から与えられたもの、神から預けられた命、という基本的なとらえ方をするからです。聖書は、直接的な答えよりも、とらえ方のヒントを与えるものです。

 今日の聖書の箇所には、弟子たちに対しての主イエスの教えがまとめられています。ここでも謙遜が求められています。逆に言えば、人は容易に思い上がる、ということです。自分に力があって、他者を断罪できると思い込むこと(1~4節)、信仰の問題も強弱(または、多い少ない)でとらえて、思い描いている力に至るために増し加えることを求めること(5~6節)、自分の都合を第一にしても、与えられている使命を免れるものではないこと(7節~)、見当違いを避けるためにも、冷静な分析と判断が必要となるのです。

 さて、わたしたちはどうでしょう。実は、ここで主イエスが指摘しているような思い上がりに、多くの者が陥っているのではないでしょうか。気付いて悔い改めるならば、4節にあるとおり、神は赦しを準備していてくださると聖書は語るのです。そこには真の安心があります。自分の為すべき当然のことが何であるのかを、見つけるために学びを深めましょう。

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