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2010年2月アーカイブ

退寮式 退寮式

 2月25日に機農寮の、2月26日にシオン寮の退寮式がそれぞれ行われました。 たくさんの思い出を胸に、先生方や仲間と最後のひと時を過ごしました。

学校礼拝

<今週の聖句>
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」
( コヘレトの言葉 12章1節 )

<今週の奨励>
「青春の日々にこそ」(ロバート・ウィットマー牧師)

 聖書のコヘレトの言葉は私たちに上手な生き方を教えてくれます。信仰的な表現はあまりありませんが、その代わりに「生きる」ということがいかにむなしいかと伝えることばの方が多いです。そして、終わりになって急に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と言います。なぜこんなことを言うのでしょうか。
 今日の日本では人生がむなしいと思っている人々がたくさんいるようです。統計によると、この10年間では毎年30,000人以上の人々が自殺しています。さらに、日本の子どもたちの30%が何らかの孤独感を感じていると言われています。そこでコヘレト(集会で語る者)は「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と言います。
 創造主を心に留める――それは自分が自分の力で生きているのではなく、創造主によって生かされていることを知ることです。聖書によると創造主である神は愛です。つまり、あなたは愛である神の愛によって命が与えられ、日々その愛によって生かされているということです。であればあなたの人生は決してむなしくないのです。
 神の愛こそ私たちの生きる力であり、私たちを生かす力であります。誰の人生においてもいろいろなことがありますが、若い時に神の愛を確実なものとして知ることができれば、何があっても希望を失うことはありません 。

<今週の聖句>

 「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」

( ルカによる福音書 15章32節 )

 

<今週の奨励>

 「 視点を変えてみると 」(肥田信長 宗教主任)

 

 今日の「放蕩息子のたとえ」の主な登場人物は、父と2人の息子です。父に対して「わたしが頂くことができる財産の分け前を下さい。」と弟が言うのです。そして、その時与えられた財産を全てお金に換えてしまって、遠い国に旅立って放蕩の限りを尽くしてしまうのです。

 与えられた全てを使い尽くしたときに、弟がいた地方でひどい飢饉が起こって、食べることに困り始めます。豚の世話人として働いている時に、豚の餌にも手をだしてしまいたくなる程、お腹が減ってしまいます。そんな状態になった時、父の元に帰る決心をします。自分の行動を振り返ってどのように自分の罪を告白していこうかと考えながら。「もう息子と呼ばれる資格はありません。」そのように告白した弟に対して、父は彼をもう一度自分の息子として迎え入れます。

 畑で仕事をしていた兄は、自分の家に戻ってみると、お祭り騒ぎをしている家の状況に驚きます。そして、父が放蕩の限りを尽くしていた弟が帰ってきた事を喜んでいると聞きます。自分が友達と宴会をしようとしても子山羊1匹もくれなかったのに、弟には子牛を準備して食べているのです。

 この物語は、登場人物の誰の立場で考えるかによって、感じ方が全く違って見えてきます。違った立場から一つの出来事を見ると、腹が立つ立場にいたり、ゆるしてもらいたいと思う立場にいたり、立場に変わることに気付きます。自分が今いる立場をもう一度見直して、ぜひ自分ではない他の立場からの視点でも物事を見て、自分自身が神さまからいつもゆるされてばかりいる立場にいることに気付いていきたいものです。

<今週の聖句 >

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」( フィリピの信徒への手紙3章7節 )

 

<今週の奨励>

「すべてを失い、多くを得た」(榮 まり子 先生)

 

 聖書科で使用している資料集に「Footprints (あしあと)」という詩があります。

 

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、

あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

わたしと語り合ってくださると約束されました。

それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

ひとりのあしあとしかなかったのです。

いちばんあなたを必要としたときに、

あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

わたしは、あなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみの時に。

あしあとがひとつだったとき、

わたしはあなたを背負って歩いていた。

 

 作詞者マーガレットさんは、予想外の人生を送ります。命を失う危機の時、詩を生み出した時、詩が盗まれた時、詩が戻った時、全て思いもしない出来事でした。大きなものを失ったと思う時に自分の期待や願いより大きなものを与えられたと、聖書の言葉に知らされる人生でした。私達にもその言葉は語られています。

2月4日(木)~7日(日)江別市野幌公民館ギャラリーにて、

美術部・書道部合同の校外展を開催します。

生徒一人ひとりの作品をぜひご覧になって下さい。

時間は9:30~17:00(最終日は16:00まで)です。

<今週の聖句>

 「そこで王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

( マタイによる福音書25章40節 )

 

<今週の奨励>

「見えないところを見る神」(榮  忍  学校長)

 

 礼拝ファイルを点検していて、一所懸命メモ欄と感想欄が埋められているのを読むのは嬉しいものです。でも、時々、確かに欄は埋められているのですが、この週報に載っている言葉を引き写しているばかりのものもあります。自分の言葉を見つけて、借り物でないものに整えてほしいと思います。

 さて、聖書を表面ではなく、込められたメッセージを理解し、受け止めてほしいと前回話しました。主イエスは、たとえ話をいくつも残しておられます。表面だけならただのお話です。今日の箇所も、世の終わりにおける神の選びと裁きが語られています。世界の破滅や神からお褒めの言葉をいただく注意でしょうか。

 人は神の前で自分自身を問われる時を与えられるのです。いわばそれは、他と比べられない「究極の時」です。自分では意識すらしていないことが指摘されます。「あなたはわたしを助けてくれた」と。身に覚えのないことです。王(神)を助けるようなことがあれば、忘れたりはしないでしょう。王は40節の言葉で答えます。「弱く小さな兄弟と、わたしは同じなのだ」と。自分が深く思いを寄せている者と、わたしたちは共感します。あたかも一体であるかのように。王(神)も同様に心を寄せてくださるのです。

 たとえの後半では、「自分は評価されて当然だ」と自負している者たちが退けられています。「言ってくれれば」「王と分かっていれば」彼らもそれらしく行動したのでしょう。でもそれは、身に着いたものではないのです。借り物ではない、本物を手に入れましょう。

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