【日曜メッセージ】「休憩所」

Date:2021.01.31

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」

(新約聖書 マタイによる福音書11章28~29節)

天下人の徳川家康は「人の一生は重き荷を負って遠い道を行くようなもの」と言ったそうです。栄華を極めても人は重荷を負って生きていかなければならないと、しみじみと語ったのでした。しかし、聖書はこれとは少し別の見方をしているようです。今日の聖書の箇所からは、人生の重荷を直視しながら、重荷と思えるものの中にある深い意味を示し、そして重荷を負って喜んで歩む術を語っているようにも思います。

イエス様が住んだ地域の農地は斜面が多く、大小の石が混ざり家畜を使っても大変ですが、雨で土が流れるのを防ぐため石を残して耕しました。その時、首にかけた「軛」は家畜の負担を軽くする道具。動きを制限しますが、重荷を分散し力を生みます。信じられる人が一緒にいる安心は、困難な人生を豊かなものに変えていき、重荷は互いの絆を深め合い、良き人生を刻んでいくことになるのです。だからこそイエス様は「疲れた者、重荷を負う者は…わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」と言って招かれたのです。

そう言えば、かつてマザーテレサは「私たちは、ただこの世の一員であるだけでなく、ただ何かをして通り過ぎるだけでなく、一人一人が素晴らしいことをするために生まれてきたと信じています。」と言いました。小さな体で、人の重荷を負うことを喜びとしながら歩み続け、それが続けられるよう神様に祈り続けた生涯であったと聞きます。

重荷を負う中で生きる意味を与えられる平安があります。酪農学園創立者の黒澤酉蔵さんもそんな一人だったのかもしれません。喜んで重荷を担いながら、聖書の中に心の休憩所を見出しながら歩み続けたのではないでしょうか。黒澤記念講堂の資料室の中でその一端に出会うことができます。

日本で最初のCOVID-19感染は昨年の1月15日。あれからもう1年。ある意味、戦国のように死と隣り合わせで取り組む只中にいるのかもしれません。沢山の重荷を担って生きていくのでしょう。人々の努力や忍耐でやがて治まるとはいえ、心の休息をとらねば倒れてしまいます。どうか重荷を負いながら疲れを覚えた時、聖書の言葉に心の休憩所を見い出し、リフレッシュしながら歩んでくださいますように。

(日本キリスト教団野幌教会牧師 福島 義人)