【日曜メッセージ】「待っている父親の話」

Date:2024.10.06

 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

 (ルカによる福音書15章20節)

 「放蕩息子」のたとえは、聖書の譬え話の中でも大変よく知られている話の一つです。父親から財産を分け与えられ、それをもって街に出て、湯水のように金を使い、好き勝手に身を持ち崩してしまう息子(弟)。ついに彼は無一文となって、誰からも顧みられず、家畜のえさを食べて飢えをしのぎたいと思うほどに落ちぶれて、どん底のどん底を味わいます。そして初めて改心するのです。彼は父親の元に帰り、自分の間違いを悔い、「息子と呼ばれる資格はないので、雇い人としてください。」と言おうと心に決めて、帰りの道を一歩ずつ進むのです。

 人が自分の生き方を神様の前に見つめ直し、深い反省をもって立ち返ることの必要を聖書は教えています。これを「悔い改め」と言います。この息子の改心はまさに悔い改めることだったのです。しかし、大切なことを見落としてはいけません。この息子の何倍も時間をかけ、心張り裂ける思いでいつも気にかけ、立ち返ってくることをただひたすらに待ち続ける人がいたのです。それこそがこの息子の「父親」でした。ひと時たりとも息子のことを忘れず、心にとめ続けていたからこそ、はるか遠くにその姿(恐らくすっかり変わり果てて、みじめな姿になっていて、見る影もなかったかもしれません)を見つけたのです。すぐに息子だとわかり、確信して、駆け寄ったのです。父親は持てる限りの愛を込めて、この息子を抱きしめ、受け止めたのでした。ずっとこの息子を愛し続けていた父親の姿がここにあります。

 こうして「もう息子の資格はない」人が、再び「息子であること」に戻った、いえ戻されたのです。父親に受け入れられた時、息子は自分の回心の思いよりもはるかに勝る父の愛に気づくのです。この父親こそ、聖書の示す神のことです。神は今も、あなたが神の愛の内に戻ってくることを待っておられるのです。この物語が、放蕩息子のたとえにとどまらない、「待っている父なる愛の神のお話」であることに気づける心を持っていたいと思います。

(宗教部長 久保木 崇)