【日曜メッセージ】収穫感謝礼拝・酪農学園創立90周年記念礼拝

Date:2023.10.01

「関東大震災が起きていなかったら、酪農学園はなかったかも?」

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」 (ローマの信徒への手紙5章3~4節)

明治維新より、蝦夷地開拓のために1869年(明2)に開拓使が設置された。本州等からの「移民政策」や「屯田兵政策」が始められた。主に小作農民の開拓(焼き畑農業など)や本州穀物中心の営農が主であったが、大変過酷の開墾事業であった。しかし、生産中心の農業のため、輪作や休耕もしないで、単作や連作を繰り返すなど、略奪農業により地力は消耗し、さらに明治末期の不況と大正2年の冷害、凶作により米など穀類中心の農業は壊滅状態に陥り、農民は疲弊状態に陥った。

キリスト者であり酪農家の黒澤酉蔵は、宇都宮仙太郎や佐藤善七等と共に、被害地への救援活動を展開しつつ、北海道では水田中心の農業では滅びるとする水田亡道論を展開し、北海道にあった適地・適作による寒地農業への切り換えのために、「家畜無ければ農業なし」とする有畜混合農業に力点を置くように働きかけた。デンマーク酪農を取り入れながらの酪農を基軸とする有畜混合農業が北海道全体に広がっていった。

今から100年前の1923年(大正12)9月1日に関東大震災が起きた。政府は、食料品等の輸入品の関税を撤廃したため、安い乳製品が輸入されることになった。その結果、どの乳牛会社も酪農民の牛乳を買わなくなり、酪農受難の年になった。黒澤達は、関税を元に戻すように働きかけもしたが、酪農民を守るため、道内の酪農家に呼びかけ、出資金を集め、デンマークを模範とする「酪農民のための酪農民が経営する組合」有限会社北海道製酪販売組合を設立し、牛乳を買い取り、加工する組合事業を始めた。後の雪印乳業株式会社に発展した。

また、黒澤は酪農の普及には多くの知識、技能を必要とするため、組合に「酪農義塾」の設置を提案し、1933年に酪農義塾(後の酪農学園)をスタートさせた。1946年9月1日には、黒澤は理事会に教育の指導理念をキリスト教の聖書に置く方針を提案し、三愛精神と実学教育、健土健民を教育の柱に据えた。

もし、関東大震災がなかったなら、その大変な困難に直面することがなかったならば、有畜混合農業による北海道農業また酪農業が更なる発展を遂げていたかも知れない。そうであったなら、雪印乳業株式会社の創設、酪農学園の創立もなかったかも知れない。

黒澤酉蔵の信仰は、艱難と向き合い希望(収穫)に導くための知行合一であった。このことの上に立つ酪農学園において、今、その建学の精神から学ばれる皆さんの実学の日々に、神様の導きと祝福とがあるように。

(元校長 村山 昭二・とわの森三愛高等学校第2代校長)