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トピックス

学校礼拝(第17回)

2016.08.18BLOG

今週の聖句


そのとき、わたしは主の御声を聞いた。 「誰を遣わすべきか。 誰が我々に代わって行くだろうか。」 わたしは言った。 「わたしがここにおります。 わたしを遣わしてください。」                    


                                   『 イザヤ書6章8節 』


 


奨励題  『 わたしがここにおります。』


奨励者  学校長  榮   忍


 


 夏休みが、普段にない経験と学びの時であったことを期待します。セカンドステージに活かされますように。


 旧約聖書に「預言者」が登場します。この漢字は彼らの使命をより明確に表していて「神の言葉を預かる者」であって、「予め語る者」とは微妙に違うことを受け止めておいてください。彼らは本来、自分の解釈や推測を語ることは赦されていません。神から語るように求められたことを忠実に語るのが、預言者の使命です。


 読んだ箇所では、イザヤが力強く自分を売り込んでいるかのように見えますが、6章の初めから読むと決してそうではないことが分かります。イザヤは、神殿で神を見、消え入りそうになっているのです。圧倒的な神の聖性に接し、罪深い自分はこれ以上立っていることもできないと感じています。浮ついた言葉を語り、惑わす言葉しか語れない、と自らを断じていたそのイザヤが、直後に「わたしを遣わしてください」と応えることが何故できたのでしょう。


 ここに、神の使いが登場し、聖なる炭火(焼き尽くし清める行為の象徴)を嘆くイザヤのくちびるに当てるのです。これによって、イザヤは応じることができる者へ変えられたのです。罪の認識と悔い改めが成り立つところに、赦しと新たな使命とが備えられることのパターンがここにもあり、神と人との関わりにおいて、見過ごしてはならないものであることが分かります。これをあらためて整え、示して下さったのが、キリストの歩みでした。


 神は応答を求められます。無理やりに従わせるのではなく、決断し踏み出すことを待っておられ、応じた者には、困難を乗り越える道をも示されます。自分を見つめ、自分の命の使命は何かを聞き、支えを信じて、応じる決断に進み出たいものです。





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